これからお前を言葉で殴るから、衒学と倫理で抵抗しろ

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 ホールデン・コールフィールドを気取ってライ麦畑にいるわけでもないし、戯言遣いを気取ってER3に行った訳でもないし、九十九十九に成りたかった訳でもない。ディスコ・ウェンズデイに憧れた訳でも、中萱梓を夢見た訳でも、法水麟太郎と重ね合わせたわけでもない。ただ、影響をうけていることについては否定しないけれど。肯定もしないけどね。最近のお勧めは大澤めぐみです。グレッグ・イーガンはお勧めしません。

 読み返しもせず推敲もせずにだらだらと文章を書くとこんなしょうもない文章が出来上がるという例。全くと言っていいほどまるで内容が無いし、伝えたいこともまるでない。伝わることもまるでない。そう、意味がないのだ。何の意味も意図もない。恐ろしいほどに駄文である。「意味のないことなんてないんだよ」なんてさも悟った風に言うやつが偶にいて、そうかも知れないと思うことがあったが、これに関しては徹頭徹尾終始一貫掃き溜めみたいな文章と内容で構成されている。加えて、くそみたいに捻くれた分かりにくい文章で、だ。最後まで読んだとして、残るものは何もない。そもそも私も読んでないし。でもまぁ、それでも君が貴重な時間を、もっと有意義に使える筈の貴重な時間を割いてこのクソみたいな文章を読むことを選択するというのであれば、止めはしないよ。止めはしないが、重ねて言うが、本当に意味は無い。情けないほどに、恐ろしいほどに虚無的な文章に震え上がるがいい。

 

 ■/8

 君だけは覚えていて欲しい。かつて、藤田茜という声優がいたことを。

 

 ■/0

 予てより常々、常住坐臥疑問に思っていることがある。エピグラフの存在意義についてだ。一体全体どうしてこんなものがあるのだろう、それ自体に意味があるのだろうかとしばしば思うことがある。「冒頭には死体を転がせ」なんてよく言われたものだが、死体よりも見る機会が多いのではないだろうか。名文を一行、詩を一文だなんてこじゃれたエスプリの効いたものから、果ては分厚い哲学書やら学術書をパラグラフ毎丸々書き写しているものまで。其処に何の必然性があるのかがまるで分からない。作者が書いた文ではないのに何の意味があるのか。実の所、割と私はエピグラフを読み飛ばすきらいがある。別に作者本人が書いた文でもないのだから、それ自体にそこまで重要性はないと思っていたからだ。

 とまぁここまでをこき下ろしておきながら、今のようにいざ自分で文章を書き出そうとしてみると、なかなかどうしてエピグラフの良さが理解できる。成程確かに引用を用いたくなるのだ。より正確に表現をするならば、前置きをしたくなるのだ。これから語られるのはこういうテーマで書かれるお話ですよ、と伝えるのに実にぴったりなのだ。加えて、作者自身が粋がって考えた独善的なポエムでもない。作者目線の露骨過ぎるネタバレも回避することが出来る。丁度いいのだ。とは言ってもこれから語るのは別に大層な推理小説でもなければ、大衆が好むエンタメ小説でもない。どちらかと言えば随筆だ。最も、徒然なるままに日暮し硯には向かわないのだけれども。

 

 ――それでは、1人の女性の話をしよう。

 

 ■/1

 人は一人で生まれて、一人で死んでいく。その間だけでも、その寂しさが無くなれば良いと考える。もしかしたら愛っていうのはそういう事なのかもしれない・・・・・・って思うんだよ。

 

夏目藍(サクラノ詩)

 

 ■/2

 

 ――藤田茜という声優がいる。

 仰々しく書き始めてみたところで申し訳ないのだけれど、実の所彼女について全くと言っても過言ではないほど予備知識も事前知識も持ち合わせていなかった。そんな事を言うと「またまた予防線を貼って」だなんて宣う方もいると思うが、大変遺憾ではあるが全くこれっぽっちも嘘ではない。最も、文頭に「彼女を知った当時は」とつくことにはなるのだが。知った当時はそもそも認識している筈もないので、当たり前と言えば当たり前で詰まらない言葉遊びではあるのだけれども。とは言え、私が彼女を知ってからはまだ日が浅い。声優オタクを気取ってはいるものの、別段全てのアニメをくまなく視聴している訳ではないし、見知らぬ名前があれば調べている訳でもない。新人女性声優を青田買いして古参ぶる気など更々ないからだ。ここまで言えばまぁどのタイミングで彼女を知ったかは想像がつく訳で。もっと言えば「魔法少女なんてもういいですから。」を視聴していない。ここまで言えば聡明な読者諸君はそうかそうかつまり君は二〇一七年から入った俄かな奴なんだなと、さながらエーミールのような口調で糾弾するかもしれない。致し方無いだろう。しかしながら、彼女が出演している作品に関しては有名――有名かどうかは少し怪しいが――なものがある。そう、「Tokyo 7th シスターズ(以下ナナシス)」である。御多分に洩れず、私も諸兄と同様に二〇一七年から推し始めた口ではあるが、その実それより前からナナシスで関わっていた訳である。なのでまぁ、乗り気ではないのだけれども、ナナシスについて少々述懐する。

 

 ■/3

 ナナシスはクソみたいなゲームである。

 何だこいつはという方もいらっしゃると思うが一旦落ち着いて聞いて欲しい。もう一度言うが、ナナシスはクソみたいなゲームだ。別に蛇蝎の如く嫌っている訳ではなく、コンテンツとしては昔は兎も角今は好きだが、ゲームに関してはクソ以下の何物でもない。結果として、新時代のアイドルになり時代を担うコンテンツには成り得なかった訳だ。ゲームのリリース日的には特に同ジャンルに於いて対抗馬もいなかったのにだ。その理由が一重にゲームと、それを取り巻くものがクソだからだと私は考えている。

 先ずゲームシステムが良くない。音楽ゲーム主軸に置いておきながら、その実音楽ゲームの体を成してない。大部分が忌むべきものだ。確かに、音楽ゲームは作るのが難しい。世に存在する音楽ゲームの中の多くのシステムはKONAMIによって特許を取得されているからだ。有名なものは「対応するボタンの真上からノーツを降らせることが出来ない」ことだろうか。思い返してみて欲しい。昨今の音楽ゲームでは殆ど真上からノーツが降ってくることはないだろう。例を挙げればきりがないが、このように色々な制約がついて回るのだから面白い音楽ゲームを作るのは難しいと言えるだろう。しかしながら、それにしたってあの出来は酷過ぎる。ゲームの根幹を占めているものが面白くないということは、ゲームを楽しむ上で苦痛でしかない。苦しみながらゲームをする人も少なからずいることは私含め否定はしないが、それは決してマジョリティではない。運営もそれに関しては多少なりとも危機感を感じていたのだろう。大幅リニューアルとやらでゲーム性が幾分か改善した。改善はしたが、世は正に名だたる音楽ゲームが群雄割拠する音楽ゲーム春秋戦国時代。少ないパイを取り合うにはそのリニューアルは余りにも遅過ぎた。

 ならキャラはどうか。実情としては最近の音楽ゲーム、特に媒体がスマートフォンのものに関しては、キャラゲーの側面が強い。ことキャラに関しては全く悪くない。藤田茜についての記事を書いておきながら彼女の演じる荒木レナに関しては別段思い入れもないが、キャラの好みに声優の好みは介在しないのでそこは致し方無し。キャラデザもキャラ設定も丁寧に作り込まれている。悪くはない。事実、悪くはないのだが何処かしら気持ち悪さを感じるのだ。この気持ち悪さを言語化するのは容易ではないが、恐らくこのような感情を抱いた方は少なくないだろう。良く出来たキャラと設定だ。実に良く出来ている。だからこそ、形容し難い気味の悪さのようなものが産まれる。勿論、完璧なものなんで存在しない。ある一点に於いてのみそれは完璧であったとしても、次の一瞬には失われている。それが連続する状態が存在し続けることはないのだけれど。そうは言っても、確かに完璧であり続けた。キャラ設定にしても世界観にしても、特に言うことがない。それこそが欠点なのだ。不安定さが内包されない。完成された作品はそれはそれで素晴らしいものだ。しかしながら、私たちプレイヤーが介入する余地が殆ど残されていないのだ。思うに、SNSの普及もあるだろうが、最近流行りになるコンテンツの共通項として、想像しやすく創造しやすい傾向が見受けられる。二次創作、と形容するには些か語弊があるかもしれないが、我々側に解釈を幾分か委ねる、考察や創造の余地を残している作品が多い。例えばSNSなんかでキャラ名などで検索をしてみるとそれが如実に現れるだろう。完璧さ、完成度の高さとはかえってそれが短所に成り得るのだ。何処かしら気にかかるオシャレさや、制作サイドのナルシズムが滲み出ているのだ。作品を作るものとしては当たり前なのだろうが、自己満足というか、そういうものがやけに鼻につくのだ。それ自体がフェイタルなものでは無論ないのだけれども、それ自体が作品の面白さには無論直結しないのだろうけれども、小さな綻びはそれだけで全体を侵食していくのだ。

 そういった話以前に、ゲームというもの自体が受け入れられにくくなっているのではないかともしばしば思う。ゲーマーとしてはゲームはプレイするものだと胸を張って言いたいが、それとは対照的に、それをそう形容していいのかは兎も角、プレイしないゲーマーも増えた。見るゲーマーだ。善い悪いは抜きにして、動画投稿サイトにアップロードされているプレイ動画を見て満足する人も少なくはなくなってきている。一介のゲーマーとしてそれはどうかとも思うが、ここですべき話では無いので割愛。

 とまぁ散々と否定的な意見を吐露しておいて言うのもなんではあるが、別に私はナナシスを毛嫌いしている訳ではなく、むしろ肯定的な印象を抱いている。否定的な感情を持っているのはゲーム部分に過ぎず、それ以外は良い側面も勿論あるからだ。その最たるものが楽曲であり、ライブである。楽曲の良さを逐一一曲ずつ良さを述べていくことも吝かではないが、それにははてなブログの余白が狭すぎる。 敢えて選ぶとするなら、le☆s☆caThe QUEEN of PURPLEは必修だという所か。曲については今更述べる必要性もない。

 ライブの話に戻る。確かに素晴らしいとはいったが何も手放しに褒められるものでは決してない。3rdライブは素晴らしく出来が良かった。ハルカゼとStar☆Glitterで薄っすらと涙を浮かべるくらいには。ここで主に批判しているのは1stと2ndについてだ。前述した完璧な故の気味の悪さというものを、支配人達、若しくは私個人は嫌でも体験することになる。ナナシス他人に勧めておいて1stと2ndを勧めない理由がそれだ。この話をするとしばしば、音を被せてるからだという声があがる。確かにそうだ3rdではちゃんと歌ってます)。無論それもあるが、ライブ会場にいてはそれはあまり重要ではない。勿論歌を聴きに行っているのだから良くはないが、ここで言いたいのは気味の悪さであって、演者を非難することではない。ついて回る気味の悪さは、結局のところ、ライブでもそうなる。制作サイドが意図した作品自体の完璧さが拭えないのだ。こういったコンテンツのライブでは、二次元のキャラと三次元の声優との境界が重要になってくる。某アイドルマスターミリオンライブ!のライブ比較する訳では決してないのだが、ナナシスのライブはどうもその境界が凄まじく曖昧なのだ。自己紹介や他のMCをとってみたとしても、キャストがキャストとして話す場は殆どない。キャストは常にキャラとして喋り、その舞台にはキャラクターしか存在しないのだ。声優は煌びやかな衣装に身を包み、キャラクターを演じる。ドラマCD地味た、言ってしまえば大して面白くもないような内容のトークを披露するのだ。更に言えば、そのトークの内容が特にライブと関連性がある訳でもない。見に行っているのはトークイベントではなくライブなのだ。演者の熱のこもったパフォーマンスを、演者によって息を吹き込まれたキャラクターを見たい、応援したいのだ。私がライブで感じた違和感の正体はそれだ。おおよその人が抱いているライブ観と食い違うからだろう。その違和が加速するのが2ndライブで、1stライブでの冗長なMCだとかテンポの悪さとかを徹底までに排除したのが2ndライブで、これはこれで異常性を感じる。キャストの自己紹介はなんと一人当たり数十秒だ。残りの3時間強はただひたすらに曲を披露するという構成は、突拍子のなさを感じる。「『二次元アイドルってこういうもんでしょ』っていう世間のイメージを音楽面でまずは壊したいっていう思いもありますしね」なんて総監督がインタビューで語っていたように、まさしくそれの体言だ。実際、コンテンツとしてのライブではないものを目指したのだろう。研ぎ澄まされたそれは、異常性と不足感を沸かせる。わざと定番を踏み外した奇妙さ。その定番から外れた故の欠点として、キャストはキャラクターの夢を見るかという点で、こういったコンテンツのライブに於いてはしばしばキャスト本人のパフォーマンスに対してキャラクター像が重なりそれが浮き上がることがあるが、それを感じさせにくい。全く感じないわけではない。確かにそこにいるんだというキャラクターの顕現はあった。しかしながら、どうも違和感が払拭されないのだ。それは構成によるものが多いとは思うのだが。私がそこまでナナシスのキャラクターに入れ込んでいる訳ではないからと言われればそれまでなのかもしれないのだが、そうであっても感じさせにくいと思うのだ。あの時確かにその場にはキャラクターが居たんだという熱量が、想いを感じ、共有したいのだ。次の機会では。

 割と批判をしているが、それでも尚ライブという場に於いて、一体感は楽しかったし、パフォーマンスも素晴らしいものであった。構成の問題とキャスト自体の実力不足がまぁまぁあったにしろ、だ。構成の問題については割りと変えてきているから支配人のことを考えているかとも思えたし、キャストの実力に関してはまだ経験が浅い人が多く、期待を抱かせる。荒削りで、尖ったそれは次への希望を抱かせたのだ。そして、その経験を生かして大成功したのが3rdライブだ。MCのクソさが改善され、極限まで曲を聞かせるという構成は、結果として3rdで完成された。相変わらずMCはふざけたくらいに短いが、没入出切る構成であった。曲の構成も悪くない。最後にStar☆Glitterを持ってくるのには震えた支配人も多いのではないのだろうか。ここで延々と3rdライブについて語ってもいいのだけれど、生憎これは別にナナシスについての記事ではない。それを語るのにははてなブログの余白が少な過ぎる。それに、言葉を重ねれば重ねる程に伝わらない何かもある。まずは黙って動画を見て味わって欲しい。そして、来るべき4thライブ武道館で会いましょう。

 

 1分37秒から見て。惚れるぞ。

 

 ■/4

 ――それでは、1人の女性の話をしよう。

 

 ■/5

 だらだらだらだらと脱線して本筋に関係ないことを書き連ねてしまった。そうではない。そうではないのだ、私が言いたいことは。私がしたいのは藤田茜の啓蒙活動であって、彼女の魅力を伝えることなのだ。差し当たって、まずは彼女が演じたキャラクターを紹介していくとしよう。個人の話はそれからだ。画像は全てアニメ公式サイトから借りてます。

 

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 システィーナ=フィーベル(ロクでなし魔術講師と禁忌教典)

 銀髪。猫耳(偽)。メインヒロイン(偽)はい可愛い。終わり。

 基本的に銀髪であればなんでもいける口なのに恐ろしいほどまでに刺さらない。何でと言われれば分からないのだけれども。多分性格。あまりツンデレが好きではないからかな。

 

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 和泉紗霧(エロマンガ先生

  銀髪。妹。はい可愛い。終わり。

  銀髪だけど刺さらないそのに。現実世界に妹がいないにも関わらず妹属性に凄まじい抵抗を覚えているので多分それが原因。可愛いのは可愛いのだけれど。

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 三国山蚕(妹さえいればいい。)

 黒髪。頭に乗せてるの一見リボンのように見えてその実女性ものの下着。ぱっと見まともそうに見えるなりをしているがダントツで頭おかしい。終わり。

 おいおいお前今までの文章量に対してキャラクターの紹介がいくらなんでも簡素過ぎるだろうと非難するのはやめて欲しい。特にキャラクターに思い入れはないのだ。全くない訳でもないが。特定の声優が好きそれ即ちその声優が演じているキャラクターが好きとは成り得ないのだ。仮にそうなる人がいるのならばそれは盲信者以外の何者でもない。プレイヤー一人が墓地から呪文を唱える度に、そのプレイヤーに三点のダメージを与え続けろ。生憎そこまで盲信している訳ではないので、もう一度言うが別段キャラクターに思い入れはない。そもそもそこまでキャラクターに愛着を覚えるタイプの人間ではないのだ。そもそも私は別にアニメについて詳しくはないし、ぜんぜん分からない。だから可児那由多可愛い結婚してぇとか、クルルシファー・エインフォルク可愛い結婚してぇとか、決して思ってはいないのだ。銀髪のなのだけれど系女子はいいなだなんて、そんなことを思っているわけではないのだ。決して。二次元のキャラクターにそんな感情を抱くことなどクルルシファー・エインフォルク可愛い結婚してぇあるわけないのだ。可児那由多可愛い結婚してぇ。

 

 ■/6

 真面目に、少し真面目に。

 正直言って演技力は高くない。演技の幅も広いかと言われれば広くない。声質に関しては個人的な嗜好なのでどう評価しようもないが。主に演技力について触れるが、前述したロクでなし魔術講師と禁忌教典エロマンガ先生は同クールに放映されたものである。特に業界に精通しているわけでもないので定かではないが、同時期に収録されたものとして仮定する。仮定したとして、和泉紗霧に関しては特に申し分なかったように思う。推しているという点を除いたとしても。しかしながら、システィーナ=フィーベルに関しては違和感を覚えた。単純にキャラクターに声が合っていないと言われればそれまでではあるが。思うに、ファンタジーであったりバトル物であったりに対しての演技の取り組みが不足しているように感じた。戦闘シーンはどうしても声を荒げなければならない。その時に下手さというか荒さというかそういったものが目立つ。作品から少し浮いているというか、モヤが掛かったようにおぼろげな感じ。声質の問題もあるだろうが、張り上げたときの違和感がすごい。声量も足りていないし、声も安定していない。そもそもキャラの声で叫ぶと言うこと自体が下手で、今後の課題にもなってくると思う。役を勝ち取る上で、少なからずそういったシーンは出て来るだろうし、まだまだ若手だし経験不足という面もあるし仕方ない点もあると思う。一方で、和泉紗霧や三国山蚕のような舞台が現代で戦闘が起こりえないものに関して、便宜上日常系――別に挙げたものは日常系ではないとは思うが――は、良いとまでは言わないが悪くない。周りが上手いが故の違和感は消えないし、足りない部分がかなり多いが。ともあれ、声に関しては素直に好きだ。純粋に自分の好みに刺さっている。なので、演技力を向上して頂き、今後の伸び代に期待したいところである。

 演技の幅に関しては努力が大変感じられる。大衆に知れ渡っているものではないので申し訳ないが――彼女はしばしば地方のイベントで朗読劇に出演することがあるのだが――その際に大変演技の幅を感じた。私が拝見したのはかの有名なヘンゼルとグレーテルだ。話の内容自体は有名であるだろうしご存知の方も多いので特に触れないでおく。朗読劇の中で彼女はヘンゼルと魔女を演じた。後に言っていたが、魔女のような年老いた人物を演じるのは初めてで苦労したそうだ。推しの言葉は鵜呑みにするタイプの人間なので、その言葉の通りだったとして、成程たしかに演技の幅が感じられる。その朗読劇が二〇一七年一一月のこと。更なる演技力の向上に期待したいところである。また、ここで触れるのもどうかとは思うのだけれども、彼女の生き別れの妹の夏和小という人物がある。一八歳以上の良識のある大人の方であれば調べてみるのも悪くないだろう。正直な所、それに対してはどうという感情も感傷もない。生活をする上でそれが必要で、演技力を高めて演技の幅を広げるのにそれが重要なら、本人が決めたことなのだから外部がどうのこうの口を出す謂れは無いのだ。

  Tokyo 7th シスターズへ出演し、アイドルマスターに出演し、キャラクターソングを出す機会が多々有るが、歌唱力はあまり高くは無い。高くは無かった。昨今の声優は全員歌がうまいみたいは言われ方をすることがあるが、得意ではない人からしてみれば迷惑な話である。実際、彼女も歌を苦手と感じているようで以前からレッスンを重ねているらしい。その成果は出ているようで、以前よりもかなり歌唱力は向上している。とは言っても、依然高音域の伸びと歌を用いた表現に関してはまだ弱い。特に歌唱中に自身の歌の苦手さを実感しているが故の自信の無さが伝わってくることがしばしばあった。ナナシス2ndの時が正にそれで、緊張も勿論あるのだろうが見ていて楽しそうに歌っていない感がすごかった。演者が楽しんでいないとこちらも手放しでは楽しめない。見ている側としてもかなり不安ではあったが、ナナシス3rdではまだ若干の硬さが残るものの、かなりそれは改善されている。一方で、キャラクターソング、キャラ声での歌唱に関しては安定感を感じる。ナナシスも言ってしまえばキャラクターソングには含まれるのだろうが、声質的に余り地声と変わらない歌い方をしているので除外している。キャラ声での歌唱の方が難しいと称されることがあるが、彼女に関してはキャラクターソングの方が向いているのかも知れない。キャラへの没入がすごいのかもしれないが。特に、まだまだダメな部分が多いので、今後の成長に期待として結びとする。最高のパフォーマンスを披露してほしいところである。

 藤田茜について話すとしばしば「三大性欲」と揶揄されることがある。詳細は検索してください。彼女は特に三大性欲事件について気にしては無いと述べていたし、実際気にしていないのだろう。周囲から言われることについてはどう思っているのかは知らないが。その他にも初めて自分がソロでパーソナリティを努めるラジオの第一回目の冒頭でわりときつめの下ネタをぶち込んでくるなど自由奔放な性格をしている。他にも高校の卒業式は寝ていたから記憶が無い、自宅ではクッキークリッカーでクッキーが焼ける様をひたすら眺めているなど、わけの分からないエピソードが多い。そんなエピソードを聞いている上で感じるのは、大変頭の回転が速い人なんだなということだ。かつて高橋未奈美に感じたそれだ。一人喋りのときもそうだが、複数人で話すときにそれが如実に現れる。周りの環境、自分の立場を理解し、会話を構成することに長けている。自分の取るべき行動、立ち振る舞いを理解するのがかなり早く、しない方がいいこととこう振舞ったほうが適切で受けがいいことを理解するのが異常な速度だ。トークの内容が割りと下に寄っている感は否めないが。情報伝達がメインになっていないコミュニケーションは難しい部分が多い。というのもそもそもコミュニケーション自体が情報の伝達を目的としているもののみなのであれだが、今の現代社会にで意味されているコミュニケーションに関して、彼女は抜群のパフォーマンスを見せている。若手なこともあって機会が少ないが、特にそれが発揮されるのが後輩と関わる時で、この時の立ち振る舞いが特にすごい。もしそれを見る機会があれば、必見である。Dopaのmid laneばりに安定して見ていられる。常時考えながら動きoverextendしないことは容易ではないのだが、割と簡単にやってのけている。単一に物事を取られるだけでなく、多角度からの解釈に秀でているのではないだろうか。その能力があれば演技力の向上にも期待が持てそうである。

 

 ■/7

 分からないのだ。

 ここまで書いておいていうのも何だが、推し推したらしめている理由が分からないのだ。皆目検討がつかない。雨宮天の時は割りとスラスラ書いておいて、何故推しているのか、困ったことに分からないのだ。藤田茜推していると言っておきながら。かつてソクラテスが言っていたように無知の知、理解できないことが理解できた状態であって、特に何も考えずに推している人よりはいいのかもしれないが、一体全体全く分からないのだ。拗らせているからこんなことを考えるんだと言われればそれまでだが、何を言われようが全く分からないのだから仕方が無い。突き詰めて考えれば考えるほどに分からなくなっていく。

 かつてルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタインは「全ての問題は解決した」と言っていたが、解決なんてしてないのだ。そもそも論理哲学論考に於ける解決は別に一般的な意味で言う解決したとは言えないんじゃないって話は置いておいて。偶然なんてない筈なのだ。何かしら理由があって、必然な筈なのだ。なのだけれど、それを言語化する言葉を持ち合わせていない。「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」ともヴィトゲンシュタインは述べている。推しているという事象は間違いないのだけれども、それは、言語では表せられない領域の話になる。ファイナルファンタジーⅨでジタンが、「誰かを助けるのに理由がいるかい?」と言ったように、「誰かを推すのに理由がいるかい?」という言葉を送りたい。敢えて言うなら、雨宮天の時同様、「何も持っていない努力の人」だからと答えるが、厳密には違うような気がする。大筋としては間違っていないのだろうが、形容する言葉を持たないのだ。別に顔も声も歌も演技も好きだが、他にも顔も声も歌も演技も好きな人がいるにもかかわらず、その人を推していない理由は何なのか。私を私たらしめている理由は何なのか。分からない。何事も我々には。可愛いから推す。それでいいで。ごちゃごちゃと適当な詭弁を弄して、まるで好きではなり理由を探しているみたいに。何をしようが、彼女がどう変わろうが推すことは変わりないのに。好きであるということだけは変えられないのだから。そうそう変わるものではないのだから。

 余談。「ご報告」とか「いつも応援してくださる皆様へ」に対しておおよそ一般的に出回ってるような内容が発表されたとして、トクベツいちばんネガティブな感情を抱く事は全く無い。好きではあるが、別に好きではない。どうにかなりたいとも、どうにかしたいとも思っていない。ファンとして応援はしているが、だからといってその人にとって特別になりたいと思った事はただの一度も小指の甘皮ほどもないし、自分が信じて推している人が選んだ選択ならば、それが間違っていることも無いと思う。幸せになって欲しいとは思っているが、「幸せにしたい」、「幸せにしてやってる」などと思うことは無い。こちらが「幸せにしてもらっている」ならばその限りではないが。その結果不幸になっているのであれば何かを抱かざるを得ないが、そうでないのならばそれは良いことなのだ。アランの幸福論にもあったが、全ての人間が幸福になるのは義務なのだ。推しが幸せになるのならば、ファンも幸せなのだ。幸福は伝染する。だから、その時が来たとしたら、心から祝福と謝辞を送ろう。

 「ご報告」とか「いつも応援してくださる皆様へ」に対して「引退」という言葉がついて回るのであれば、相当思うことがあると思うので、しばらくの間イェルサレムゲヘナを来訪して業火に身を焼かれて万象一切灰燼と為すことになるだろうが、今この段階に於いてそれを考える事はしたくない。暗い顔をして未来の話をしても仕方が無い。本人が選んだのであるならば、それはきっと正しい選択なので受け入れるしかないのだけれども。

 

 

――およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。

 

 結局の所、人が人を推すのに、人が人を好きになるのに明確に言語化できる理由は必要ないのかもしれない。敢えて挙げるとすれば、とか言ってる時点で別に挙げる必要はないのだ。そもそもその問い自体が間違っている、必要のないものなのだ。推し推したらしめている所以は、考えれば考える程分からないのだ。要素命題として極限まで推している要素を分割は出切るが、それを組み合わせたところで決定的な理由が組みあがることはないのだ。推したいから推す。好きだから好き。それでいいではないか。そういう意味で、「解決された」のだ。ぐだくだと拗らせずにTwitterで「藤田茜しゅきー推すー」とでも言っておけばいいのだ。おおよそ自分の気持ちを下手に言語化するよりもこういったシンプルなものの方が人に刺さりやすいのだ。言語化できる言葉を持ち合わせていないように、好きだから好き。推したいから推す。それでいいではないか。理由なんて後付けで、正当化なんてする必要もなくて。面倒で、意味なんてなくて。曖昧さを纏って。好きなものは好きで、嫌いなものは嫌いなのだ。明確に言語化できなくとも、明確な理由が探し当てられなくとも、藤田茜が好きなのだ。その気持ちと言葉に嘘はないのだ。拗らせてはいない。だから、自信を持って胸を張って大きな声で言ってやればいいのだ。今すぐ、終わらせるために。撃鉄を起こして。言葉の引金を引いて。

 

 「――私は、藤田茜推しています」